ボランティア精神
私は今回、ついにやってきた「施設入所問題」に際して、しみじみ思うことがあります。
本当のところ、ナニサマの入院騒動は私にとっては好機だったのです。毎日ナニサマを見ていて、ナニサマは頑張っているなあって正直思っておりました。
杖をついて歩くナニサマの顔は、まるで「般若」でした。
痛い膝を抱えて、たとえわずかな距離とはいえしんどいんだろうなあって感じました。
着替えているときもそうです。
30分以上かかって、洋服を脱ぎます。
私と目が合おうものなら、すぐ「やって」というナニサマ。
それもわからないわけではない。不自由な片手がある以上、すんなり着替えだって出来るものではない。
これも介護始めた当初は、私が全部やっていたことだ。
そのころは、ほとんど毎日入浴介助をし、パジャマを着せて、寝かせていたのですから。
すっかり痩せてしまった私に
「makoさんがそうなったのは、私のせいなの?」
と言ったこともあるナニサマ。
まだどこかナニサマにも、遠慮する気持ちがあったときだ。
これでは私も夫も疲弊してしまうということで、少しずつ自立を促し、自分で着替えも出来るようになったというわけです。
ナニサマにも、介護してもらうためにはこのままでいいとは思っていなかったので、頑張ったんだと思います。
そのナニサマも歳を取り、無理していた右足の膝の痛みや右腕の痛みが出てきたのはもう当たり前のことだったのです。
リハビリしたところで、無理すればまた同じ状態になるのは目に見えています。
ナニサマも楽になりたいに決まっています。
すべて介助してもらいたいに決まっています。
そして、それを毎日介護職員のようにやれるわけがありません。
食事の用意、洗濯、部屋の掃除、介護品の買い出し、それだけでもいっぱいいっぱいなのに、すべての介助なんて無理です。
夫もそのことがわかったことと思います。
人間には、「善なる心」があって、無償の行為をやる良心があるんだなと思います。いわゆる「ボランティア精神」です。
困った人を見ると、手を差し伸べたくなる「奉仕の精神」って人間には必ずあると思います。
私がナニサマを介護することが出来たのも、その「善なる心」だと思っています。
でも残念ながら、これを持続させるには相当な努力が必要です。
そして相当な自己犠牲も必要となってきます。
でも、もう私も若くありません。
自分自身が子供たちに世話にならないよう、生活していかないといけない年齢になりつつあるのだから、もういいんじゃないってようやく抵抗なく思えるようになりました。
な~んて納得したようなこと書いてますが、私は「ブラック嫁」でいいと思っています。
今日も病院に洗濯物を取りに行ってきましたが、4時くらいでしたがまた寝ておりました。
もう容態を聞く必要もありません。
ブラックな嫁は、洗濯物だけ持つと、薄目を開けたナニサマに
「洗濯物持って帰るね。じゃあ」
とだけ言って、さっさと病室を後にしました。
「ありがと」という声はかすかに聞こえましたが。
もうしゃべることもありません。
もともとないんですから。(笑)
Source: 鬼嫁介護日記