「喜びを感じた」ことの意味
先のブログで、姑の介護を始めた時の自分の気持ちを書いたのですが、誤解がないように書きますが、決して姑の介護を楽しんだことは一度もありません。当然です。(笑)
あんなに意地悪されて、心を開いてもらったことがない姑の介護をする気になった自分に驚きこそすれ、それこそ私の中に何が起きた?ってな感じでした。
勢いで引き受けた私は、どこかにこれで嫁として認められるのかなと思うところがありました。
姑は決して私を嫌いではなかったと思いますが、私に対しては構えるところが多かったように思います。
「ライバル」だからと言う人もおります。
姑は大変賢い人です。
時代が違えば、もっと恵まれた環境で育てば、キャリアウーマンになっているような人だったでしょう。
残念ながら、猜疑心が強く、人を信用できない性格故、心を許せる友達もいなかったのではないかと思われます。
そしてその性格故、嫁とうまくいくはずもなく、かくして息子夫婦は同居を嫌い、家を飛び出す始末。
それが自分たちのせいだと反省できない親の世代。
ただ、そそのかした嫁が憎いという感情だけは残ったでしょうねえ。
それでもそんな感情もすべて封印して、嫁に介護をしてもらうという選択を選んだ姑のしたたかさは相当なものです。
私は心のどこかで雪解けを期待していたのかもしれない。
だから、姑の介護を始めたころの私は、よく頑張りました。
今考えるとあり得ない努力をたくさんしてきました。
それは介護を楽しんだというのではなく、頑張っている自分に酔いしれていただけなのです。
嫌いな人でも、介護出来る自分に喜びを感じただけなのです。
まあ、それもせいぜい2年くらいのものでしたけどね。(笑)
どちらにしても仮面嫁姑の在宅介護生活にもピリオドが打たれることになりそうです。
応援してくださったブロ友さんたちには、感謝してもしきれない思いです。本当に・・・
あ、まだ終わってなーーーい!!!
Source: 鬼嫁介護日記