看取り介護を通じて伝えるべきもの

看取り介護とは、人が最期の瞬間まで生きる喜びを感じることができることを信じて、そうした生き方を支える介護だと思う。

人として、この世に生を受けたこと自体が尊い。人として生まれ、人生という旅を歩むことができることが貴重なのだと思う。だからこそ命が燃え尽きるその瞬間まで、生きるを支えたいと思う。そういう意味で、「看取り介護」とは、この世に生まれたことへの感謝を失わないように、生きる過程で刻んだたくさんのエピソードを思い出してもらいながら、最期の瞬間まで安心と安楽に過ごしてもらうために必要な介護だと信じている。

看取り介護の質を高めようとする理由や動機づけとは、人としてこの世に生まれ、生かされていることの感謝にしか過ぎない。それ以外の意味を見出す必要もないと思っている。

だからこそ介護関係者が看取り介護を、「する・しない」、「できる・できない」と判断するのではなく、日常介護の延長線上に、ごく普通に看取り介護の実践があって当然であると考える介護業界になってほしい

看取り介護を特別な介護であると思い込む、「誤解」をなくしたい。そのために、「看取りを支える介護実践~命を支える現場から」という本を今年1月に上梓させていただいた。

だからと言ってこの本は、人にものを教えるような本ではない。命の尊さを伝えたいと思うだけだ。そうだ…命の尊さとは、教えるものではなく、伝えるものだからだ。

全国各地で行う「看取り介護セミナー」も、加算を取るためのセミナーにはしたくないと思っている。看取り介護とは何か・・・それは人が生きる過程を支えるという意味で、誰にでも提供されるべきケアであり、介護支援者が、するとかしないとか決めるような介護ではなく、日常支援の一つとしてごく当たり前に関わるべきケアであることを伝えたい。

勿論そのための知識や方法論も伝えている。それは誰しもできる方法である。

尊い命が燃え尽きる瞬間まで、人は人との間で、様々なエピソードを刻むことができる。それは人がこの世に生きるという意味だろうと思うし、そのエピソードの記憶を、逝くものと残されたものにつないでいくことが、命のリレーであり、それが人の歴史を創っていくのだろうと思う。

僕が総合施設長を務めていた特養では、末期がんで亡くなられた70歳代の女性が、亡くなる前日に元気だったころにいつも参加していた「療育音楽」という音楽療法の場に参加する場面があった。その場面を施設に泊まり込んで付き添っていた家族が見つめ、残されたわずかな時間の中で周囲の人と関係性を紡ぐ姿に感動し泣いている姿があった。

そのエピソードは、葬儀の際に親族や知人に繰り返し語られ、心に残る思い出となっていくのである。

そういうエピソードがまったく存在せず、「看取り介護」を受けているという人の姿が見えない特養やグループホームはおかしい。密室の中で何が行われているかわからない場所の看取りは怖い。そこで行われているのは看取り介護ではなく、放置介護であるようにも思え、その場所で死に至る人の状態とは、周囲に人がいたとしても、「孤独死」ではないかとさえ思う。群衆の中の孤独死を生まない看取り介護が求められている・・・。

そういう意味では、看取り介護とは、最期の瞬間まで人と人との交わりを支える介護でもある。

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Source: masaの介護福祉情報裏板